甲子園の砂
「からだの文化人類学」波平恵美子
中学生の頃だった。
友達の家のテレビで夏の高校野球を見ていたら、
おばちゃんが突然、泣き出した。
目頭をおさえ、居間を出て行った。
テレビには、敗戦のあと、甲子園の砂を拾う球児が写っていた。
それほど、感動する場面か。
私は目で尋ねたら、
「いやあ、なんでやろ。
おかん、砂を拾うのを見て、よく泣きよるねん。」と
友達は、慣れっこになったと言わんばかりの顔で答えた。
波平恵美子さんの「からだの文化人類学」を読んでいて、
この思い出がひょっこりと甦った。
「第7章、靖国の死なない兵士たち」には、
日本軍は、日露戦争のときに、
「敵軍は土葬し、日本軍の戦死者は火葬し、
遺骨は内地すなわち日本国内に戻すことに決めた。」と書かれている。
この原則は、第二次世界大戦でも貫かれた。
ただし、ガダルカナル島での戦闘以降は、事情が変わる。
「1943年六月には陸軍士官は次のような講演を行わざるを得なかった。
遺骨は必ずしも帰ってくるものではないが英霊は必ず帰ってくる。」
だから、「箱の中に土や砂が万一入っていたとしても、
それは戦死した場所の砂や土であって、
それに英霊が宿っているものと考える。」と説明した。
太平洋戦争末期になると、
多くの「遺骨」は、兵士の身体ではなかった。
それでも、「日本軍は最後まで骨箱を使い続けたし、
軍隊においても家族においても
その箱は遺骨が入っているものとして祭壇に安置され、
死者儀礼の対象になった。」という。
おばちゃんのお兄さんは、戦死したと聞いたことがある。
まったくの想像だが、お兄さんは「砂や石の遺骨」で戻ってきたのではないか。
「甲子園の砂」のシーンを見るたびに、
その「遺骨」を思い出したのではないか。
この甲子園の伝統を生んだのは、
1949年8月17日、小倉北高校のエース、福嶌一雄投手だった。
「倉敷工業との準々決勝で、
肩を痛めて9回無念の降板、延長10回でサヨナラ負けをした。」
その敗戦のあとと、サイトで紹介されている。
1949年といえば、まだ戦争も生々しい。
17日は、終戦記念日から、2日後。
「甲子園の砂」に、家族の「遺骨」を見た人がいても不思議はない。
甲子園では、郷土愛も高らかに歌われる。
しかし、これも、敗戦により、
「愛国心」「祖国愛」を声高に語ることがはばかられたためではないか。
戦後のおばちゃんたちは、遺骨を「砂」で耐え、
「祖国愛」を「郷土愛」に置き換えて、
甲子園球児に応援の旗を振っていたのではないか。
ひょっとして、最後まで「戦後」が生き残っていたのは、
熱闘甲子園だったのかもしれない。





