『「待つ」ということ』鷲田 清一
善意や一途さは、有害なんや。
「待たなくてよい社会になった。
待つことができない社会になった。」と、
著者・鷲田清一さんは、書き出す。
わが子の誕生ですら、生まれる前から、性を知り、顔もほのかにわかり、
遺伝子までわかり、出生をじりじり待つこともない、と言う。
鷲田さんは、臨床哲学を専攻する学者であり、
大阪大学の学長でもある。
さらに、昨年、アエラの表紙を飾られて、
いつも、ヨージ・ヤマモトのファッションで決められていることを知った。
1949年生まれ、私より、一つ下。
かっこいいなあ、と正直ため息が出た。
さて、待つことができない社会とは、
「せっかちは、息せき切って現在を駆り、
未来に向けて前景姿勢をとっているようにみえて、
じつは未来を視野に入れていない。」
足もとのボールだけを見て、
ドリブルしているサッカー選手みたいなものか、
なるほど、と感心する。
そのいちばんの罪は、
「人を育てられない」ことにある、と
鷲田さんは訴えているように思えた。
「『精神疾患を患った娘を説得するコツ』にあるわけではない。
意表を突いた解決法があるわけではもない。
現在は膠着状態であるが、
それは状況がたしかに『よろしくない』のだけれど、
その『よろしくない』加減がまだ生ぬるいということである。
残念だが今はまだ手が出せない。」
「患者を、思いどおりにとは言わないにしても、
なんとか扱いが楽になるようにコントロールしたいという願望が
しばしば援助する側には見られるが、
それは援助者自身の自信のなさの裏返しとして立ち上がってくるもので、
それゆえにそこには援助者の不安や焦りがまざまざと映っており、
援助される側は当然それに『圧迫感や不信感』を感じとってしまう。
が、援助する側が肚をくくって待つ態勢へ入ると、
隙を感じさせるそのへこみが
いわば『プラスのかたちで』患者側にも伝わることもある。」
「傍目には、ときにうっちゃっているとも気がないとも映り、
ときになげやりとも不誠実とも映る。
が、事態に真正面から向きあえば
『妄想と正論との激突』か緊迫した膠着にしかならない。
『あえて本質に触れない会話を続けていける』ということが、
援助のこつである。
このとき、愚鈍な善意や、ゆとりを欠いた一途さは有害なだけである」
おっちゃんは、アホや。
いままで、なんて、つまらんことを言うて、きたんやろ。





