『夜は暗くてはいけないか』乾 正雄
「明るさ」への強迫。
「暗さ」について考えるようになったのは、
もう10年も前にヨーロッパを旅行したときのことだった。
ユーロスターに乗って、ロンドンからブリュッセルを日帰り、という強行軍。
昼前にブリュッセルに到着。何をしたかといえば、教会めぐり。
夕方までに5~6箇所、回っただろうか。
教会の中は真っ暗だ。天井近くに空いた、明かり採りの窓だけが明るい。
でも、目が慣れてくるとだんだんといろんなものが見えてくる。
柱やそこに施されている装飾。参列者のための椅子。
パイプオルガン。すると今度は、窓から入ってくる光がまぶしいくらいに見えてくる。
夕方になると、太陽は沈んでくる。光も弱くなる。
教会の中はますます暗くなる。
それでも、何も見えない、というわけではない。
よーく眼を凝らしてみれば、かすかに、「気配」のように、
自分の眼がものの存在を感じ取っていることが分かる。
人間の眼って、こんなに少しの光でも感じ取ることができるんだ、という驚きと、
そのことを前提に組み立てられているヨーロッパ建築の考え方に、
とても感心したおぼえがある。
だから、ちょっと知りたいことがあって、
恥ずかしながらはじめて読んだ「陰翳礼讃」の中の、
こんな文章に「ちょっと待てよ」と、違和感をおぼえてしまうのだ。
だが、いったいこう云う風に暗がりの中に美を求める傾向が、
東洋人にのみ強いのは何故であろうか。
西洋にも電気や瓦斯や石油のなかった時代があったのであろうが、
寡聞な私は、彼等に蔭を喜ぶ性癖があることを知らない。
乾正雄著『夜は暗くてはいけないか』は、
日本で、ヨーロッパで、数々の建築物を調査してきた照明の専門家という立場から、
「暗さ」について語った本だ。
豊かな四季を持ち、年間での寒暖の差が激しい日本(アジア)、
寒暖の差は比較的少なく、日照時間の差が激しいヨーロッパ、という対比から、
乾さんはヨーロッパの文化をこう位置づける。
気候よりも光を意識させる土地、それがヨーロッパである。
ヨーロッパの文化は、「光の文化」といってよい。
これは、光と闇の往き来を意識した文化という意味である。
光は、充満していればいるほど、よけい感じるというものではない。
闇の中の一筋の光線こそ、かえって光を意識させるのだ。
建築だけでなく、絵画、あるいは自身の体験なども交えながら、
この「光の文化」をひもといていく乾さん。
石造りの家を数百年使い続けるという「住宅の歴史」の連続性が、
「照明の歴史」の連続性につながったヨーロッパでは、
今でも住まいの中に「暗さ」を持ち続けている。
その一方で日本は、震災や戦火によって住宅の多くが破壊され、
「住宅の歴史」が分断されてしまったところに、
電灯というイノベーションが持ち込まれ、あっという間に普及し、
結果として住まいから「闇」が消えた、という。
結局「明るく」する、ということは、均一にすることだ。
あらゆる場所が、同じ明るさになる。いや、ならなくてはいけないと思っている。
家に帰ったら、無意識に家中の明かりをつける。日が暮れきってないのに。
別に暗くても困らないし、困ったら、そこではじめて明かりをつければいいのに。
これはもう、強迫観念に近い。
一枚の画の中に、さまざまな明るさを描き分けた17世紀オランダの画家、
ピーター・ドゥ・ホーホの絵を紹介しながら、乾さんは言う。
こういう絵を眺めていると、昼光の不均一性と云った、
一見、日常の不便をもたらすとしか思えないものが、
じつは人々の生活に本来あるべき背景なのだ、と教えられる。
のみならず、昼光とそれの作る陰影という、
およそ人間の精神に無関係としか思えないものが、
じつは人々のものの考え方のおおもとにある道具立てなのだ、
とまで信じさせられる。
公団住宅の5階で育ち、家に帰ると全部の部屋の明かりをつけるのが
当たり前だった僕の「精神」はどうなっているのか。とても気になる。





