『伝わる・揺さぶる!文章を書く』山田 ズーニー
思考の伴走者。
ズーニーさんは、いいところに目をつけられた。
この本は、「実用以上、芸術未満」の領域を開拓する、という。
文章は、思考を鍛える。
会話も、思考。
この領域には、コミュニケーション、生きることのすべてが含まれる。
電話に代わって、Mailのやり取りが増えた。
いくら、話口調で書いても、書くことは、つまるところ文章。
電話なら流れていくニュアンスも、じっと留まる。
読み手に、クンクン嗅がれる。
ちょっと「上目線」や、
嫌味な表現は意図せず現れる。そこが怖い。
おっちゃんも、おしゃべりのコミュニケーション下手や。
仕事でも、日常の暮らしでも、
なかなか自分の意見が通らない。
もっと、悔しいのは、その意図まで誤解される。
「なんでそこまで、悪くとるねん」と、叫びたくなる。
けれど、ズーニーさんのように、
まず、相手の立場に立って考え直すと、
おっちゃんの方が無茶なことを言っていることが多い、と反省する。
けれど、反省が続かない。
ズーニーさん流にいえば「メディア力」という信頼性がないのに、
おれの意見を素直に聞け、と詰め寄る。
それは、せっかく建てた家を更地に戻して、
俺の言う通り建て直せ、というようなもの。
安藤忠雄さんのような権威も権力もない、
ただのおっさんの言うことに従えるわけがない。
ズーニーさんは、「課題」をだす。
そして、「問う」。
「問い」を、細かく砕いていく。
読者の日常まで近づける。
お母さんが、離乳期の赤ちゃんに、食事を与えるときのようだ。
あくまでも、自分の力でかめるように導く。
こんなテクニックなら、おっちゃんだって、実践していると思っていた。
でも、おっちゃんの「問う」と、
ズーニーさんの「問う」は、残念ながら全然違うことに気づいた。
おっちゃんの「問う」は、問い詰める。すなわち、追い詰めること。
ズーニーさんの「問う」は寄り添うこと。
同じ行為でも、ズーニさんの用語で言うと、「根本思想」が違う。
なぜ、ズーニーさんは、こんな「問う」を身につけたのか。
それは、ズーニーさん自身が、
若いころから、何か事にあたるとき、たちどまり、悩み、
繰り返し繰り返し、自分に「問う」て来たのだろう。
だから、若い時の自分に問いかけるように、
「問い」を解く方法を話しかける。
当然、目線が読者といっしょになる。
ここが、違う。
いいか、よく聞け、
俺が苦労して獲得したノウハウを伝授してやる。
こんな「上目線」ではない。
だから、ズーニーさんの本で、問題解決の技術を学びながら、
知らない間に「心」まで広げられている。
やってみよう、という勇気がわき起こる。
ただの技術書、実用書ではない。
ズーニーさんご本人のことばを借りて、
この本を要約すると、
「実用以上、芸術未満」の領域を「芸術以上」の志で書かれた本だ。
2001年初版、版を重ねて
2009年29刷。
売れることは、ウソをつかない。





