『「場所」論』 丸田 一
幻想としての「場所」
二年前、大晦日とともに、駅前の八百屋さんが閉店した。
思い出せないほど昔、
一軒しかなかった魚屋さんが、知らない間になくなった。
野菜や魚をスーパーでしか買えない。
それは、とても寂しいことだと知った。
八百屋さんは、まだ2軒残っている。
1軒は、愛想が悪いが、
もう一軒は気がよくつくし、配達もしてくれる。
若い跡取りもできた。
「もってほしいよね、少し遠回りしても買わなきゃ」と、家で時々話題になる。
『場所論』は、言う。
私たちは現在、共通の生活空間に生きる「住民」としてではなく、
また、自治空間を担う「市民」としてではなく、
消費空間を愉しむ「消費者」としての立場を急速に強めている。
そして、この三つの立場が統合されることなく、消費者としての私たちは、
近隣型商店街を捨てて、価格・品質・品揃え・時間の四拍子揃った「ジャスコ」を選択する。
そして、私のように、
「地域固有の食文化を失ったことを嘆き、失われた美しい景観を取り戻そうともがき、
壊れてしまった地域生産圏や地域経済圏の再生」を願う。
けれど、著者は言う。
地域は混在郷そのものである。
もともと、農を離れ、「水利」から解放され、都会に出て来た時、
「場所」からの自由を得た。
職住が分離された時から、地域を統合する必然性はなくなっている。
しかし、私の育った商都大阪では、職住がいっしょだった。
わたしは、大阪の問屋街で生まれた。
一階で商売をして、二階は住居だった。
商売敵と近所づきあいをする。敵を友にしなければならない。
折り合いをつけながら暮らさなければならなかった。
地域としての統合が必要だった。
けれど、職住が分離すれば、ビジネスでは遠慮することもない。
また、暮らす地域では、商売の世話になることもない。利害が重ならない。
「まあ、別に付き合う必要もない」
重苦しい「場」のしきたりの中で育ったわれわれ世代は、
この「利害の重ならない」地域生活は、どれほど解放感をもったことだろう。
そして、地域においても、「部分としての利便」を生きるようになった。
地域の関係性は、Webの世界と変わらない。
地域もWeb空間も、同じヘロトピアなのだ。
わたしたちは混在郷の全面化という事態に直面している。
わたしたちは、もはや「場所」を必要としないのか、
あるいは「場所」そのものが変質しているのか、改めて問う必要がある。
私たちの頭の中で、統合された私がいるのか。
わたしたちそのものが偏在郷として生きることができるのか。
しかし、社会学者の指摘によると、
わたしたちは、「偏在郷としての自己」を獲得しつつあるようだ。
いくつかの「場所」を飛ぶように、舞うように、生きていく。
それは、ホテル暮らしを続ける旅人のような人生に思えてくる。
でも、私たち世代には、幻想でも、「帰るべき場所」が欲しい。
たとえば、わたしにとっては、それは「会話の中の大阪」かも知れない。





