『へヴン』 川上 未映子
40年後の『万延元年のフットボール』
1967年に『万延元年のフットボール』は発表された。
大江健三郎の代表作となった。
おっちゃんは、18歳。若かった。
『へヴン』を読み終えて、その『万延元年のフットボール』を思い出した。
『へヴン』は、「いじめ小説」ではない。
おっちゃんには、2009年の『万延元年のフットボール』だった。
なぜ、そう思ったか、自分でも不思議だった。
三浦雅士さんの口を借りて、説明を試みると。
三浦さんは、『青春の終焉』で、
1970年代、「青春」とともに「教養」「修行」も、同時に滅亡した、という。
大江健三郎はおそらく青春に殉じた最後の小説家であるだろう。
大江健三郎が、『万延元年のフットボール』で描いた
「鷹四」と「密三郎」が、村上龍と村上春樹の小説世界で生き延びる。
ただし、「鷹四」は、村上龍の中に、
「密三郎」は、村上春樹の中に。
ふたりは、同じ世界で決して交わることはない。
鷹四と蜜三郎によって形成される座標に、
大江健三郎のその後の小説のみならず、
一九七〇年代以後に登場した小説家の多くを位置づけることができる。
たとえば、行動する急進派、鷹四の延長上に
村上龍の小説のほとんどの主人公を位置づけることができる。
また傍観する知識人、蜜三郎の延長上に、
村上春樹の小説のほとんどの主人公を位置づけることができる。
さらにいえば、鷹四と蜜三郎の物語を浮かべる森と
窪地の神話の延長上に、中上健次の小説の真の主人公とでもいうべき
路地の神話を位置づけることさえできるだろう。
村上龍は、「鷹四」のような破壊の意思しかない。
村上春樹は、すでに世界は終わっていて、破壊の対象もない。
傍観するしかない。
村上龍の小説においては世界は破壊されるべきもの、
失われるべきものの集積である。
村上春樹の小説においては、逆に、世界はすでに
果ての果てまで終わってしまっているのだ。
失われてしまっている。むろん、そこにおいてこそ
「失うものは何もない」というべきなのだろうが、
この一語はもはやはじまりの決意を告げるものではない。
ただ、終わりの悲哀を漂わせる呟きでしかない。
『へヴン』に登場するいじめっ子、百瀬は、「密三郎」ではないか。
いじめのアイディアを出し、いじめの現場にいるが、
決して、自ら手を出すことはない。助けることもない。
それは、いじめを受ける「僕」の問題だ、という。
「僕」の唯一の友達になる女性徒「コジマ」は、行動する急進派の「鷹四」だ。
ただ、逆向きのベクトルとなる。
「コジマ」も、酷いいじめを受けながらも、「僕」に訴える。
僕たちがどんな酷い目にあっても、それを誰に訴えるでもなく、
なにがあっても学校へゆき、またそこでおなじことが繰りかえされ、
それでもそこでただそれを受け入れること、- それこそが本当に大事で、
意味があることなのだと。
「密三郎」の「百瀬」は、
妹がいじめにあったら、絶対助ける、相手を許さないという。
だったら「百瀬」の「傍観者」は、思想になりえないじゃないか。
「コジマ」は、思想を貫いて、
狂人になったような終わり方をする。
「僕」は、いじめの原因にもなった「斜視」を手術で治して、
新しい世界に踏み出そうする。
それは、希望や勇気を約束された世界ではない。
しかし、「百瀬」や「コジマ」では生きる喜びがあるのか。
生き抜けるのか。
「村上龍も、村上春樹も、さようなら。
わたしこそ、現実を受け入れて生きていく。」
『へヴン』は、小説家としての川上未映子のそのような宣言の書ではないか。
次作には、「僕」にこそ、名前が付き、
新しい世界が見えてくることを期待したい。
(めちゃ、誤読しているような不安に襲われながら、素直な印象です。)





