『山田洋次 なぜ家族を描き続けるのか』 新田 匡央
家族を描く。家族で描く。
山田監督は、遅咲きの監督だった。
日本映画のピークを過ぎ、
松竹ヌーベルバーグの新しい波にも乗らなかった。
山田が入社した一九五四年、日本映画はピークを迎えようとしていた。
一九五三年には小津安二郎の『東京物語』が公開され、
溝口健二の『雨月物語』が話題となった。
一九五四年には黒澤明が『七人の侍』で日本中を沸かせ、
木下惠介が『二四の瞳』で日本中を泣かせた。
松竹は「見た人間に失望を與えるようなことをしてはいけない」蒲田調路線で
その日本映画界のトップを走っていた。
しかし、「ベテラン監督による女性メロドラマと庶民人情映画」に陰りが出てきた。
一九五九年、大島渚が『愛と希望の街』で監督デビューし、
高橋治、篠田正浩、吉田喜重、田村猛らも続く。
松竹に「ヌーベルバーグ」時代が到来する。
しかし、山田監督の思う映画とは、違う動きだった。
著者が翻訳するところ、山田監督は、
「身につまされる映画を作りたい」と願った。
監督は、父親の勤めの関係で、少年時代を中国・満州で過ごした。
そのとき、お手伝いのふみさんに連れられて見た映画
『路傍の石』で衝撃的な体験をする。
映画そのものと言うよりも、ふみさんの映画へののめり込みぶりに。
「まるで自分のことのように映画に没入し、
声をあげんばかりにして泣く
-そんなふうにして映画を見ることだってあるんだ、ということは
私にとって大きな発見だったのだと考えます。
もちろん、私は私なりに感動して『路傍の石』を見ていた、しかしふみさんは違う。
もっともっと身近なこととして、まるでその映画を所有するような思いで
見ていたのです」(山田洋次著『映画をつくる』)
それが、家族を描く映画でもあった。
「おとうと」では、家族に迷惑ばかりをかけたおとうとを、
吉永小百合演じる姉は許す。
「家族はバラバラに崩れていかざるを得ないのだが、
その崩壊を描くのではなく、家族によって人間は
再生できるのだということを強調したい」(1990年九月三日付読売新聞夕刊)
むかしは、黒澤組、小津組、木下組とか言って、
名監督、巨匠の映画スタッフは、固定メンバーだった。
映画技術を継承し、気心を通い合わせた。
当然、寅さんの山田監督も、「山田組」でやってきた。
けれど、映画の斜陽とともに、
組は解体され、映画ごとにスタッフが集められるようになる。
それでも、山田監督は、「組」時代の気持ちで映画作りに挑む。
自分の担当するシーンでなくても、役者も照明も小道具も全員で、
撮影現場に立ち会うことを求める。
「家族」を描く監督は、撮影現場から「家族」なのだ。
著者は言う。
この姉は弟という存在に振り回され、さんざん迷惑をかけられるけれども、
反対に弟と付き合うことによって得たものがあり、
切り捨てていたら味わえなかったことを経験する。
その体験こそ、姉の人生にとって大きな意味をもつのではないだろうか。
おばあちゃんの口癖を思い出した。
「何がええことで、何が悪いことか、
棺桶のふた閉めるまで、わからへん。」と。





