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おっちゃんの「感想・鑑賞録」

2010年3月24日

『検証 ・ 若者の変貌 失われた10年の後に』 浅野 智彦 [編]

筆者:おっちゃん「次」のない「終り」

80年代は、感性の時代として、若者への期待の高まりもあったが、
90年代、バブルが崩壊して、若者への風当たりはきつくなった。

いわく、人間関係が希薄になった。
いわく、ケータイなどのメディアによって、引きこもる青年が増えた。
いわく、ラクして手に入らないもののためには、大きな努力をしない、
ひいては、「終わりなきモラトリアム」人間になった。
わたしも、世の流れの尻馬に乗って、仲間内でしゃべり散らした。
     若者は他社とのぶつかりあいをおそれるという意味でも、
     他者への真剣な対峙によって鍛えられていないという意味でも
     幼稚で脆弱な自己の持ち主として描き出される。
と、世の中の若者バッシングを、編者の浅野智彦さんは総括する。

しかし、このような批判は正しいのか、
いや、その前に、その根拠はあるのか。
さらに、
     いずれにせよ「大人」たちはやがて社会の行く末を若者たちに委ねて
     退場しなければならないのだから、その若者たちの中に
     ネガティブな要素しか見いだせないというのは不幸なことである。
まことに、もっともな問題提起から、本書は生まれた。

若者は、友人関係において希薄になっている、という指摘については、
     「希薄化」ということを、「自己の内面を開示して人格的な信頼を築く度合いが
     減少した」ととらえるのであれば、友人とのつきあい方が
     全般的に希薄になっている人の割合は、私たちの調査データでは五割程度で、
     これは決して少ない数字であるとは言えない。
視点を変えて、
     「親友」のような、人格的な信頼を抱いている友人が一人もいないかと言えば、
     九割以上が親友を有している。しかも、そこでは自己の内面を
     開示するようなコミュニケーションが、かなりの度合いで行われている。
その意味では、希薄になっているわけではないとも言える。
「希薄化」という視点では、どちらとも言えない。
だから、
     (浅野は、)今日、「希薄化」と称される変化は、むしろ
     親密さに関する図式そのものの解体ではないのか、と指摘している。
     これは、私たちが前提にしてきた親密さに関する図式―自己の内面の奥深くを開示し、
     それが受容され、信頼が構築されることで親密な関係が
     構成される‐自体が失効してきているのではないか、という指摘である。
問題は、「親密さ」の意味が変わってきたことにある、と言うのが本質と言う。

若者は、社会とともに変容する。
     「自己」は、単独で自己完結的に存在するのではなく、
     いつもでも他者との関係の中で生み出され、維持・変容していくものだ。
友人関係の変化は、当然のことなのだ。

世の中が、「自分らしくあれ」と煽る。
いまの若者も、「自分らしさ」にこだわる。
そのこだわりは、「音楽」に顕著に表れる。
さらに、
     ファッション、車、映画、文学、アニメ等々、なんであれ
     そこに強く深い関わりがあるなら「自分らしさ」はある輪郭を獲得しうる。
     大切なのはおそらく対象ではなく関わりの強さと深さなのである。
なぜ、対象ではなく、深さなのか。
また、文学はもとより、ファッション、車など、
若者のこだわりをなくしつつある(?)。
多元的な自己=キャラ化した自己を生きる若者たちは、
次なる対象を、どこへ見つけようとしているのか。

「終わり」は見えて、「次」が見えない。