『サッカーW杯 英雄たちの言葉』 中谷 綾子 アレキサンダー
「人生は苦しみも喜びも半分ずつ」
2年ほど前、カメラマンの岸本剛さんから、
1930年、第1回Wカップ決勝のスタジアムの写真を
見せてもらったことがある。
ウルグアイの「エスタディオ・センテナリオ」
電光掲示板はなく、朽ちたスタンド。
威厳と哀しみに満ちた写真だった。
ウルグアイは、1924年と28年のオリンピックで連続優勝した。
その勢いで、30年のWカップ開催国として名乗りを上げた。
30年は、ウルグアイの独立宣言から100年目に当たる。
29年、めでたく開催国に選ばれ、30年2月からスタジアムの建設にかかる。
開催は、あと5ヶ月。
ウルグアイの人々は、24時間、夜は大きなスポットライトを使用しながら、
三交代制で働き続けた。
スタジアムは、7月18日、センテナリオの日
(ちょうど100周年にあたるウルグアイ独立記念日・正確には憲法記念日)に無事、
ぎりぎりで完成した。
ただ、セメントは未だ完全に乾き切っていなかった。
しかし、もちろん試合は行われた。
その時につけられた人々の足跡が、まるでその日を物語るかのように、
今日もセメントに残されている。
それから80年の歴史を重ねたWカップは、
200カ国以上参加する世界最大のイベントに成長した。
だが、優勝経験した国は、わずか7カ国。
南米とヨーロッパの2地域にしか生まれていない。
そのふたつの地域は、「選手を生み出す南米(南アフリカ)」と
「買いあさるヨーロッパ」を生み出した。
サッカー界は、悪く言えば、人身売買の世界。
その取引は、選手の幼い時期に始まる。
ビッグクラブは、選手を一日でも早く囲いたいがために、
選手の家族ごとクラブの地域に移住させることも厭わない。
だから、Wカップは、
巨大な選手見本市の状態になり、
スター選手に限らず各国の優秀な若手選手が、
潤沢な資金を持つ強豪クラブに「買われて」いく報道を目にする。
ヨーロッパのビッグクラブに目をつけられた少年や青年は、
サッカービジネスに翻弄される。
「ヨーロッパに移籍してきた南米やアフリカの若い子たちは、
ピッチに慣れる前にしておかなくてはいけないことがある。
それは、これから、日々めまぐるしく変わっていく自分の環境に対して、
心のスタミナをつけることだよ。
そして、必ず魂のよりどころを持っておくことだ」
幸運にして生き残っても、マラドーナのような運命が待っている。
有名なクラブには、数十人の若い選手が集められ、
1年後、2名ぐらいしか残らない。
そのうちのひとりは、ドラッグを魂の拠り所とした。
そのサッカーの光と影、そのものの人生を生きたのが、マラドーナだった。
ポルトガルの至宝とも称えられるフィーゴも、
サッカーの才に恵まれすぎた上に、
屈折した青春と向きあうことになる。
フィーゴはスポルディングで活躍する。
「単純に、両親や親戚、皆ベンフィカ・ファンだったのさ(笑)。
なぜ、自分の身内が、自分たちが応援しているチームを
一生懸命倒そうとしているのか、歯がゆかったんじゃないかな?
昨日まで応援してくれていた人たちのそんなジレンマが
まだ幼かった自分には少しつらかったね」
そして、スポルディングからバルサに移籍し、
神がかり的なプレーで評判を高める。
しかし、98年ワールドカップにおいても「フィーゴのポルトガル」は、
またも欧州予選で敗退、出場を逃した。
バルセロナでの活躍によってなされるアイドル的な報道。
「すごいフィーゴ」「でも弱いポルトガル代表」など矛盾する情報が錯綜する中、
98年ワールドカップが終了後、フィーゴは決意表明をする。
「次のワールドカップには、俺がポルトガル代表を連れていきます。」
確かに、フィーゴはポルトガルを2002年日韓ワールドカップに連れてきた。
しかし、韓国でのグループ・リーグで敗退し、静かにWカップを去った。
2010年南アフリカ大会は、「メッシのWカップ」とも言われている。
メッシも、「バルサでは活躍するが、アルゼンチンのためには仕事をしない」と
バッシングを受けた。
メッシは、どんな思いで本戦のピッチに立っているのだろうか。





