『ワールドカップは誰のものか FIFAの戦略と政略』 後藤 健生
南アフリカから町田へ、道は通じている。
日韓Wカップは、韓国の鄭夢準会長が
日韓共同開催案を持ち出して決まった。
2010年の開催地は、ブラッター会長がアフリカを強く支持した。
ふたつとも、FIFAの権力争いが絡んでいる。
そのパワーバランスを上手に突いた国が、開催地の権利を得た。
政治・政略が絡むのは、当然のことで、嘆くことではない。
世界を代表するイベントが、純粋な社会貢献や奉仕ではありえない。
だったら、社会的意義がないか、といえば、
それだけに、ますます意義は高まっている、というのが、
著者が、一番伝えたかったことではないか。
では、今回の南アフリカ大会の意義とは、何か。
南アフリカの場合は、血統も歴史も違ういくつもの人種が共存している。
しかも、アパルトヘイトで分断されてきた。
南アフリカの地には、1万年ほど前から狩猟採集生活を営む原住民がいた。
12、3世紀頃、西アフリカあたりから農業を生業とする、
いわゆる「黒人」がやってきた。
15世紀には、ポルトガル人、16世紀後半には、オランダ人がやってきて、
ヨーロッパと東インド会社の本拠地バタビアと結ぶ
船舶の補給基地として、街を作った。それは、現在のケープタウンとなった。
ケープタウンには、マレー系、マダガスカル人、西アフリカの黒人が、
奴隷として送り込まれた。コイコイ人と呼ばれる原住民も、
奴隷のような境遇になった。
18世紀、オランダの勢力の衰えを狙って、イギリスがケープタウンを占拠。
1876年、イギリスは正規軍を動員して、シャカ王が建国したズ―ル王国を征服する。
その際、駐留イギリス軍の中の労働者階級出身の兵士たちが、
熱心にサッカーに興じた。
それが、南アフリカにおけるサッカーの始まりだといわれている。
ズ―ル王国は、ナタール植民地となり、サッカーの中心地となる。
1879年には、ナタール植民地の中心、現在のダーバンに
全国で初めてのサッカークラブが生まれる。
ナタールに続いて、サッカーが盛んになったのは現在のヨハネスブルグ。
1886年に金鉱が発見され、多数のアフリカ人労働者が集まってくる。
低賃金、劣悪な労働環境の中、経営者は、サッカーを奨励する。
さまざまな民族、さまざまな地方出身で、
伝統的な社会や社会規範から切り離された存在となった労働者。
サッカーは、癒しだけでなく、社会としてまとめる支えともなる。
独自の新しいコミュニティーを形成するための
一つのきっかけとなったのがサッカーの試合だった。
試合当日には多くのアフリカ人たちが集まって、
「シャビーン」と呼ばれる酒場で音楽や踊りに興じ、
アルコールに酔って一日を過ごし、そうした中で人間関係を
築き上げることによって「社会」が形作られていったのだ。
サッカーはすべての人種に広がっていった。
統括団体も、人種ごとに生まれ、7団体になった。
1961年の時点では、白人によるNFL、全人種参加のSASL、
そして政府の政策に基づくアフリア人協会のNPSLと、
南アフリカには3つのプロ・サッカーリーグが並存する。
1990年に白人政権のデクラータ大統領はネルソン・マンデラなどの政治犯を釈放する。
その翌年91年にサッカー団体も、ひとつになり、
新しく「南アフリカ・サッカー協会(SAFA)」が誕生する。
1994年5月10日、FAFAに正式に加盟。
100年以上に上る人種の壁を越えることになった。
民主化した南アフリカで初の大統領となったネルソン・マンデラは、
就任の翌年1995年に開催されたラグビーの第3回ワールドカップを、
「白人と黒人、すべての民族の和解のシンボル」と位置づけた。
白人のシンボル、ラグビーWカップを尊重した黒人、
アフリカ人のシンボル、Wカップサッカーを支持する白人。
この大会によって、双方からの歩み寄りが成り立った。
南アフリカをひとつにまとめるサッカーは、町田にも通じる。
町田も、町田で生まれ育った人は少ない。
東京で働くためにでてきた。たまたま住んだところが町田だった。
東京は選んだが、町田を選んだ意識は薄いのではないか。
南アフリカの複雑な事情といっしょしては、あまりにも稚拙な発想になるが、
さまざまな意識の人をつなげるのに、きっと、サッカーは役立つ。
町田ゼルビアで、町田をひとつに!





