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おっちゃんの「感想・鑑賞録」

2010年8月11日

『ルリボシカミキリの青』 福岡 伸一

筆者:おっちゃん思想としての「動的平衡」

悪役が主人公の映画を見終えたとき、悪役にも心を寄せている。
身近にいたら顔も見たくない人でも、
小説の中でなら、じっくり話に耳を傾けたくなる。
それが、名作を鑑賞する醍醐味だ。
著者の筆になると、「ウイルス」にも深い共感を覚える。

著者は、ウイルスを「放蕩息子」と呼ぶ。
なぜなら、
     ウイルスはかって私たちのゲノムの一部だったのだ。
     私たちのゲノムはつねに複製されあるいは
     転写(DNAからRNAができること)されている。
     この過程でたまたまはずみで細胞外へ飛び出してしまった断片があった。
     それは流れ流れる旅路についた。
いつか、「自分が属していたもの」、
すなわちふるさとへの帰還を夢見て、旅路を続けた。
しかし、長い孤独な旅路の果てに、ほとんどのウイルスは絶えた。
わずかなものだけは他の細胞に付着して複製できるチャンスがあれば増え、
すこしずつ変化し、殻で身を守るようになった。

ふるさとに戻れても、すでに両親も兄弟もいない。
家族として迎え入れてくる人はいなかった。
     彼ら放蕩息子たちは、あまりにも変わり果てていたために、
     もはやすんなりと受け入れてもらえなかった。むしろわたしたちの免疫系は
     彼らをよそ者扱いして排除しようとする。彼らは必死に自らを増やし、
     自らをアピールする。喉の痛みや鼻水や咳は、そんな小競り合いの結果である。
咳は、ウイルスの泣き声なのか。
わたしに気付いて、と呼び掛けているのか。
泣く力もなく、肩のちりを払うよう追い払われたウイルス。
足音も立てず、静かに立ち去ったウイルス。
ウイルスが、いとおしくなってくる。

あるときは、著者は、人形浄瑠璃文楽座の桐竹勘十郎さんによる、
人形遣いのからくりを見せるイベントに招かれる。
章のタイトルは、「文楽の生物学」。
着物を着せないで、手足がむき出しの人形を、三人の黒子が扱う。
「手足はそれぞれ細い糸で、木枠と結ばれてだらりとさがっているだけ」だが、
「生きているように動き、生きているように止まる。」
次は、人形を持たずに、黒子だけで人形遣いを演じる。
いないはずの人形が、見事に浮かびあがる。

そこは、まさに「動的平衡」の世界。
細い糸で「たくさんのパーツが組み合わさって、
お互いに他を律しつつ、動きながら平衡を保っている」
「細胞と細胞、分子と分子」も、
「情報やエネルギーの流れ」という糸でつながっている。

その糸が切れれば、
     マイケルジャクソンのムーンウオークやロボット的な動きは、
     故意に、お互いに他を律することをやめ、パーツが独立してふるまう動きだけを
     強調している。そこでは生命が消え、機械が浮かび上がってくる。
初めてムーンウオークの魅力がわかった。
いのちのつながりがなくなり、
「強制されない」心地よさだったのか。

身近な話題から、いつしか「動的平衡」の世界に入り込み、
「動的平衡」の目で、世の中を見つめなおしている。
なぜ、こんなに自然に世界に入っていけるのか。
その理由に、何冊も読んでやっと気付いた。
「文体そのものが、動的平衡」だったのだ。