『人間の建設』 小林 秀雄 / 岡 潔
見ていれば、自然と見えてくるもの。
むかしは、理解できない一行に遭遇するだけで、もう、読むのを諦めた。
近ごろは、難しい本でも、最後まで読み通せるようになった。
年とともに読解力がついたわけではない。
わからないままに読むことが平気になっただけだ。
わからないまま読んでいれば、いつかは、ハッとする文章に出会う。
共感する。
その共感は、著者の意図と大きくそれていても、気にしない。
これも、老人の鈍感力の賜物だ。
『人間の建設』、まさしく、昔ならば出だしの3行でギブアップしていた本。
しかし、読み通した。
何ページかに一箇所、気にかかる文言が出てくるからだ。
岡 潔さんは、数学も最後は情緒、と言う。
数学の体系に、知的に矛盾がないことを証明するだけでは足りない、
数学者の感情的同意を得なければならない、と岡さん。
わからないけど、引用しておきます。
じっさい考えてみれば、矛盾がないというのは感情の満足ですね。
人には知情意と感覚がありますけれども、感覚はしばらく省いておいて、
心が納得するためには、情が承知しなければなりませんね。
だから、その意味で、知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたって、
情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとは思えませんね。
同意は、知性だけでは意味がない。
感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。
ところが、いまの数学は、
「知性を説得すること」に止まっているから駄目だという。
同じく、「時も情緒」らしい。
時には未来というものがある。その未来には、希望をもつこともできる。
しかし不安も感じざるを得ない。まことに不思議なものである。
そういう未来が、これも不思議ですが、突如として現在に変わる。
現在に変わり、さらに記憶に変わって過去になる。その記憶も遠ざかっていく。
これが時ですね。
時というものがあるから、生きると言う言葉の内容を説明することができるのですが、
時と言うものなかったら、生きるとはどういうことか、説明できません。
そういう不思議なものが時ですね。
時と言うものがなぜあるのか、どこからくるのか、ということは、
まことに不思議ですが、しいて分類すれば、時間は情緒に近いのです。
数学も情緒、時も情緒。
世界は、情緒でできているのか。
わからぬまま読み進める読者を見越して、
最後の方で、小林秀雄が救いの手を差し伸べる。
論語を素読し、丸暗記だけするのは、無意味だという批判に答えて、
「論語」の意味はなんでしょう。
それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。
一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。
それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。
丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。
だから、素読教育以外に教育方法はない。
古典はみんな動かせない「すがた」です。
その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。
「すがた」には親しませるということが出来るだけで、
「すがた」を理解させることは出来ない。
「すがた」って、なんやろ?
わからないから、だけではない。
何か魅力を感じる。
気にかかる。
だから、さあっと、頭の引き出しに仕舞い込まないで、
しばらく掌の上で見つめる、考える。
きっと、それがいいのだ、ということにしておこう。





